日本の歴史を難波宮まで



日本誕生から難波宮まで
日本の歴史をふりかえる!('▽'*)



は じ め に
▼このコーナーを作り始めたきっかけは、“大阪歴史博物館”へ訪れたことにさかぼります。はるか昔、大阪が首都だったという素晴らしい「難波宮」!前期と後期、2時代の難波宮が存在しました。 652年『前期難波宮(難波長柄豊崎宮)』完成/744年『後期難波宮』を皇都と定む(^^) …でも、一体そこには誰が住んでたんやろう?という疑問。もちろん正解はときの王様・天皇なわけですが、まったく知りませんでした(^^;;
▼沸き出す疑問の数々。ときの天皇は誰だったのか、どのようにして遷都されたのか。なぜ大阪にやってきて、また奥地へ帰っていったのか?っていうか“都”ってどのようにして出来上がったもののか?いつごろ何故?そもそも日本国の起源は??〜と疑問はさかのぼり、居ても立ってもいられず(笑)
▼というわけで、日本人の誕生から難波宮の時代まで、全体のイメージをつかんでおきたくなりました(^^) 何も知らないことばかりなので、石器時代から(笑)、しかし主には難波宮の時代までを中心に、本(古いのでちょっと心配(^^;)やネットを使って得た資料を参考に、大いに頼り、自分なりに分かりやすく再考していきたいと思います。

お し ら せ
■間違いを感じたり、新発見を知ったら随時修正していきますので、閲覧してる方はご注意ください。また、とんでもない間違いなど発見の際は、お知らせくださると有り難いです(^^)それでは。




も く じ ('▽'*)
第1章 未開から文明へ(神話〜縄文〜弥生時代)
 
項 目 キーワード
(1)神話から始まり 歴代天皇 古事記・日本書紀をもとに
(2)石器-縄文-弥生時代 弥生文化 北九州の青銅器文化 鉄の普及
(3)記録で日本をみる 『漢書』 『魏志倭人伝』 邪馬台国
 
第2章 原始国家の成立(古墳時代〜大和朝廷)
 
項 目 キーワード
(1)古墳がたくさん 大和朝廷 前方後円墳 形象埴輪
(2)最初の統一王朝 応神王朝 倭の五王 葛城氏
(3)古代国家へ向けて 大伴氏 物部氏 『旧辞』『帝記』完成 
大臣・大連 仏教伝来 蘇我氏
 
第3章 古代国家へ向け(飛鳥時代〜推古王朝)
 
項 目 キーワード
(1)飛鳥時代 蘇我馬子 物部守屋
(2)推古女帝 推古天皇 聖徳太子 蘇我入鹿
(3)大化の改新 藤原鎌足 中大兄皇子
 
第4章 前期難波宮(白鳳時代)
 
項 目 キーワード
(1)プロローグ 改新の詔 蘇我石川麻呂
(2)前期難波宮 孝徳天皇
(3)エピローグ 有間皇子
 
第5章 後期難波宮(奈良時代)
 
項 目 キーワード
(1)プロローグ 平城京から あいつぐ遷都
(2)後期難波宮 聖武天皇
(3)エピローグ 大仏開眼 平安京へ
 




第1章  未 開 か ら 文 明 へ



(1) 神 話 か ら 始 ま り

■まずは西暦何年にどこで何がおこったのかを知りたい、始まりから。そこで思い浮かんだのが、日本の象徴・世界に類をみない長い歴史と伝統を誇り、今なお栄えある天皇家(^^) 次の表【1】は歴代天皇の在位期間をまとめたものです。初代から難波宮が消えゆく700年あたりまで、キリのいい50代までです。【1】歴代天皇一覧(初代〜第50代)帝紀的モード

■これを見て「さすが天皇、紀元前660年からの記録が!」と単純に思ったのですが、そこには、神話的創作が絡み、表【1】をそのまま史実と照らし合わせることは出来ないようです。史実として、実在の可能性があるのは10代・崇神天皇から。確実に実在が認められるのは15代・応神天皇からで、史学の対象となるのは33代・推古天皇からといわれています。また推古天皇から逆算して、崇神天皇の本当の在位は200年代後半〜300年代初期と考えられています。

■暦の伝来、皇位継承法、後世的な国風諡号、記紀が編集された年代、といったことから、初代から9代・開化天皇までは実在性が低い。また、初期の年号には狂いが生じるようです。そういった説や史学的な要素も取り入れまとめたのが次の表【2】です。【2】歴代天皇一覧(初代〜第50代)現実的モード 以後はこの現実的な部分を年代に対する天皇軸として、事象に照らし合わせたいと思います(^^)


300年代末ごろに百済から学者が来て文明が開けたが、確かなところでは、欽明天皇(539年から)の時に暦博士らが来朝したのが初。推古朝(592年から)になって初めて朝廷は暦を天下に示したようです。よって、それよりはるか溯って年号を記録することは不可能(^^;
それより1200年以上も昔に初代・神武天皇が即位した(前660年)というのは、中国の「辛酉革命」の説。21度目(1260年)の辛酉の年ごとに大いに天の命が改まるという思想があり、推古天皇9年(辛酉、601年)から数えて1260年前の辛酉の年に神武天皇を置いたというのが定説です。




(2) 石 器 - 縄 文 - 弥 生 時 代

■さて、考古学と歴史学を融合し、石器時代から弥生文化までをたどります。ここではかなりおおまかに、数ある特色のキーワードを列挙するにとどめます(^^)
旧石器時代:無土器文化 紀元前10000年頃まで

縄文時代:紀元前3000年〜紀元前300年まで
【縄文文化】狩猟・漁/土器/磨製石器/洞窟→竪穴住居/集落の結成/土偶(呪術宗教的な意味)/

弥生時代:紀元前300年〜300年まで
【弥生文化】農耕/水稲耕作の集落/中国・朝鮮から青銅製の鏡や剣(武器)の輸入/生活圏広げる/鉄製の木工具、木の容器/高倉☆集落に住む集団が共同体として強く結合/三種の神器(剣・鏡・玉)/鉄の普及/

■北九州の青銅器文化:甕棺/箱式石棺の盛り土(古墳の封土の源流?)/甕棺墓地のおもな副葬品(鏡・玉・剣)→その後古墳の被葬者たる豪族の珍重→天皇家の三種神器に発展/


力あるものが長となるのは自然界の原則。人間も遥か昔からそうしてきたのでしょう。縄文時代からは集落の結成や自然への崇拝など、集団社会生活の根本が出来上がります。文化を取り入れ発展していきます。
弥生時代、すでに文明を築き上げていた大陸と国交ある北九州が最先端地域。発掘される副葬品などをみると、北九州の弥生文化が大和の古墳文化へと流れて発展していったようです。また、天皇家をはじめ大和朝廷の豪族のなかには、大和の土着ではなく、北九州から移ってきた人々が多かったのではないかといわれています。中には大陸から渡って来た人々もいたとも考えられますね。




(3) 記 録 で 日 本 を み る

■推古朝以前の、遥か昔の記録は、大陸の歴史書から見ることができます(^^) 紀元年前後の中国『前漢書』に、初めて文字によって、弥生中期の日本の状態が記録。

 0年前後 『前漢書』
「夫れ楽浪海中に倭人あり 分たれて百余国となり 歳時を以て来たり 献じ見ゆ」
=このころ百余国に分かれていた。
中国の「前漢書」に、初めて文字によって、弥生中期の日本の状態が記録(^^) この前漢書による百余国にわかれる倭人の国。倭とは今の統一日本を指すのではなく国交のあった北九州地域のことだと考えられます。

 57年(弥生中期) 『後漢書』
「建武中元二年 倭奴国 貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印綬を以てす」
=倭の奴国王が後漢に遣使し、光武帝から印綬(金印)をうけた。
倭の奴国。奴国とは倭(北九州地域)にあった国のひとつです。「漢委奴国王」金印の発見。また甕棺・箱式石棺・枝石墓が南鮮から取り入れられます。銅鐸に描かれた、ゴンドラ型の船で往来していたと考えられます。

 107年 『後漢書』東夷伝
「永初元年(107年)倭国王帥升等 生口百六十人を献し 願いて見えんことを請う」
=倭国王帥升(すいしょう)等が後漢に遣使。
この倭国とは倭面土国が本来の形であるとの説。“わのめんとこく”とは松浦半島のあたり? 印綬を授けその地位を保証した形跡はなし。中国からすれば、まだ計り知れない倭人の国。奴国王を通じて倭人の社会を統御し、それによって朝鮮諸民族を牽制しようとしていた後漢王朝は、奴国にかわって保証を求めてきた新しい連合の王権は認めなかった模様。そのことは、当時の倭の政治的不安定を物語っています。

 239年 『魏志倭人伝』
「(魏の)明帝の景初3年(239年)、朝具した卑弥呼にたいして百枚の銅鏡を授けた」
=239年、邪馬台国の女王卑弥呼が生口10人で魏に遣使。

■『魏志倭人伝』は、およそ二千字にわたって当時「倭」といわれた日本の地理・歴史・風俗など綴られています。200年代の中国人が、同じ200年代の日本の状態を記した、いわば同時代史料。筆者は、実際の国よりも南方だと考えていたようです。内容は、30におよぶ倭人の国々への距離や戸数、衣食住や習俗、これらの国々を統合した女王国の政治・外交など。

■239年、卑弥呼が魏に遣使。「親魏倭王」の称号と金印紫綬。これは57年に奴国が「漢委奴国王」として単に印綬を受けたこととは意味合いが異なり、邪馬台国が統治力を持つ国家として認められ“中国皇帝の臣下たる異民族の王”とみなされたこと。
その後、247年に卑弥呼が狗奴国(これも九州地域の国だったらしい)と戦う。240〜248年中に卑弥呼死去。266年、邪馬台国の女王壱与が晋に遣使したことが『晋書』の起居註に記録。→遣使した後、歴史の上から姿を消す。

■百済の『百済記』、日本書紀を照らしあわせると、300年代後半の朝鮮半島への進出・交渉の様子を計り知ることができます。「謎の世紀」300年代中頃の大和の状況が大陸側の記録に残ってないのは、邪馬台国の時代は中国・魏により制圧・記録も残りましたが、魏・呉・蜀を統一していた晋王朝が八王の乱(300年〜306年)によって崩壊、400年代中頃まで混乱。大和はそれに乗って朝鮮に軍事的進出を試みたので、そんなことが記録されようもなかったからだと推測できます。


第 1 章 ま と め
このように、北九州を中心に発展してきたであろう古代の日本。卑弥呼の邪馬台国が北九州にあったか奈良・大和にあったのかは永遠の謎(^^) 九州説だと九州地域30国ほどの原始国家であったと考えられ、大和説だと大和朝廷が200年代に成立していたことも考えられます。
いずれにせよ300年代中頃から始まる古墳時代へ向けて強大な勢力が、文明の発達する大陸・朝鮮への進出交渉を繰り返し刺激をうけながら、北九州から奈良・大和の地へと移動し基盤をつくり発展し、大和朝廷が築かれたという流れに間違いなさそうです。
 





第2章  原 始 国 家 の 成 立



(1) 古 墳 が た く さ ん

▼200年代末か300年代はじめには、日本各地に大きな墳丘をもつ墳墓が出現します。おおまかに言うと、前期は自然の丘凌を利用したもの。後期はその支配体制を誇示するかのように更地に造られました。古墳の分布と大きさは、大和政権そのものの構成を考えるうえに重要視されます。

▼9代・開化天皇の奈良市の御陵は立地条件からみると、前期の古墳ではなさそう(平野)なので、比較検証してみると、やはり10代・崇神天皇からが現実性のある存在のようです。で、この崇神天皇陵の陪塚から見つかった鏡の在り方から、300年代中頃〜後半のものだと考えるのが妥当のようです。

▼副葬品が年代を知る手がかりになります。弥生時代の中期は銅剣・銅鉾など、後期の鉄剣・鉄刀。この頃の鉄製品は当時まだ宝器とみられています。前期古墳には必ず銅鏡を副葬。北九州の弥生中期・後期から前期古墳へと引き継がれています。前期古墳の副葬品に見られ、弥生時代に見られなかった特色は鉄の“武器”。中期古墳時代より、鉄資源のいっそうの広まりを感じさせます。

▼有名な前方後円墳。15代・応神陵は長径418m、墳丘の表面積は日本最大。16代・仁徳凌は長さ480m高さ35m。数年がかりで造られたようです。その労働力をもって、各地に池も造成しまくりした。副葬品も、鏡・玉類・腕輪類から鉄、金・銀の装飾品へ。古墳でみるかぎり、国内統一や朝鮮進出において主導的な役割をはたしたのは、畿内では河内・和泉・紀伊などの族長のようです。

▼応神・仁徳二帝からあとの中期古墳時代からは形象埴輪が発達(^^) 壺型・円筒から家・盾・甲冑などとなり、さらに人物・馬・鳥などが造られます。殉死の変わりに形象埴輪を墓にたてることにしたと『日本書紀』に書かれています。500年代中頃には見られなくなりましたが、その後は関東で発展しました(姫塚の埴輪群など)。


古代の王様が支配力を誇示する巨大古墳。それにしても応神天皇の皇居・難波大隅宮(大阪市東区)、仁徳の難波高津宮(同)がどんなものだったのか気になります(~▽~;




(2) 最 初 の 統 一 王 朝


応 神 天 皇 と 「 倭 の 五 王 」

▼413年、高句麗と共に貢ぎ物を晋におくる。。壱与が266年に建使していらい、約150年間とだえていた中国との通交を再開したもので(もちろん実際のところはわかりません(^^))、以後およそ100年に渡って頻繁に通交を行う。その模様は、南北朝時代(439-589)の南朝の史書、とくに『宋書』に詳しく記されています。

▼『宋書』によると、朝貢した倭国の王は、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)。これを「倭の五王」といいます。 天皇の名前を中国ふうの一字で表したのは、大和朝廷が上表文を書くときに、高句麗や百済の例にちなんでみずから一字であらわした模様。では、その5人とは日本側の伝承ではどの天皇か? 照らし合わせたある説では、第1の讃王=16代・仁徳or17代・履中、第2の珍王=18代・反正、第3の済王=19代・允恭、第4の興王=20代・安康、第五の武王=21代・雄略、といわれております。…謎多し!

▼ともかく(笑)、そんな「倭の5王」が活躍する基盤を造ったのは、先の第15代・応神天皇であり、300年代後半の朝鮮進出の主人公。その支配力は巨大古墳が示すとおり、強大な応神王朝を築きあげます。初期の大和朝廷はもちろん天皇一族だけでなく、天皇家を中心とする畿内周辺の豪族・諸氏族の連合です。海外遠征の将軍・葛城(かずらき)氏や和珥(わに)氏と結びつきます。


応 神 王 朝 が ん ば れ

▼順調にいっていた海外遠征ですが、400年代のごくはじめ、広開土王の高句麗の優秀な軍隊に遭遇し、退却を余儀なくされました。しかし南鮮の任那(みまな)を確保し、百済を従属国として南鮮に威力をふるいます(^^)

▼讃王のころからは平均7年おきぐらいに南朝の首都建業(南京)を往来。410年代以後は政治的な優位に物をいわせて百済からも南朝からもさかんに技術者を呼びよせ、朝廷の手工業組織のなかに組み入れました。倭漢直、西文首、秦造らは、その管理者として大きな働きをします。機織の技術の発達、そして窯業の技術革新〜須恵器、日常用は土師器を使用。

▼600年代の日本を描いた『隋書』の「倭国伝」に「文字無し、ただ木を刻み、縄を結ぶのみなり」。漢字以前の固有文字の発明は無かったようです。しかし400年代になり、大和朝廷で漢文を用いてたのは確かです。文字は帰化人によってもたらされ、ついで日本人がそれを習う【大陸文明の摂取】。
百済から王氏、朝廷の史(ふひと)として職を世襲した模様。478年の倭王武(21代・雄略)の上表文が日本で書かれた最古の文章だといわれています。…これを最後に国交が途絶えるんですが(^^;


中 央 権 力 の 強 化 へ

▼そんな栄えある応神王朝も、500年代を迎えるころに朝廷における実力を失います(><) それは、天皇家と最有力協力者・葛城氏とが、皇位継承をめぐってしだいに反目しあうようになり、共倒れかと思われます。朝鮮での立場は弱くなり、国内では吉備の反乱が起こります。

▼地方豪族からのし上がったであろう26代・継体天皇は、中央権力の強化に取り組みます。
@豪族対策
27代・安閑天皇のころから各地に屯倉(みやけ)の設置。これは収穫物を収めるための倉を作り、これを中心に土地の経営・管理。これにより地方豪族の勢力をけずり、牽制する手段にしました。
A国際問題
の解決はまず国内情勢を安定させ自立をつけてから(^^;; これは後の33代・推古朝(592〜)までおあずけ。
B政治組織の改善
氏姓制(豪族の独自性・独立性を前提とする体制)から官司制(政治の必要に応じて官司を設け、官史を任命して成務処理する体制)へ。豪族と切り離され天皇に直属する形態ですが、もちろん権力を我が物とする氏族が絡んできます。

▼伴造(とものみやつこ)の家柄である大伴氏・物部氏という、朝廷で一定の職業を世襲する身分の氏族が台頭し執政官に。後の『旧辞』編集時に二氏一族は大連(おおむらじ)という政官の地位にあったので、作者はこの二氏を神話の上にも大きくとりあげております。二氏はこれまでの豪族出身とは違って身分の低い伴造でしたが、軍事的指揮権を掌握。新しい時代へと移り変わっていきます。

臣 と 連
 
天皇を支える臣(おみ)と連(むらじ)について
 
臣: 元来土地に根をはった豪族。
蘇我・葛城・平群・紀・巨勢など
連: 担当する職務に関係のある名を氏とするものが多い。
大伴・物部・忌部・弓削・鏡作・土師・津守・犬養など
 
■豪族出身の臣と、職務により地位を築いた連。ともに天皇を支える役目とはいえ、対立関係にあったことは想像に難くありません。
■臣と連、それぞれの筆頭氏族に“大”がつくようです。例えば大連(おおむらじ)の大伴氏は、朝廷に仕える伴(特定の職務をもって奉仕する集団)の有力者です。
 


「倭の五王」が誰なのかについては、資料が古いこともあって?詳しくわからず。今後、新事実があきらかになるかもしれませんね。ただ、この年代の朝鮮進出の動きが、全体としてわかったのならばそれでよし('▽'*) 
大陸文明の摂取し、生活様式をますます発展。大和政権はそれより前に成立していたようですが(崇神王朝)、東北地方などをのこして西日本・当時のだいたいの日本の統一したのは、300年代末に成立したこの応神王朝でした。ただ、諸国家の首長である国造を支配していましたが完全な統制はとられておらず、まだ専制的な古代国家前の、いわば「原始国家」だったようです。




(3) 古 代 国 家 へ 向 け て

▼地方国家の自立を抑えきれず、大陸の国々などなおさら統治できなくなった王朝、支配の破綻。その出生は謎とされている26代・継体天皇のころ、日本書紀は主として『百済本記』という朝鮮側の記録を豊富に使って記事が書かれています。509年(継体3年)から百済への威力が弱まり、527年には北九州で内乱。この「磐井の乱」は大伴金村と物部氏の武力によって制圧されますが、531年に任那の全面的な敗退と悲運のうちに継体天皇は亡くなったようです。

▼29代・欽明天皇のころ、朝鮮経営ますます悪化。物部尾輿が朝鮮経営の不振の源は大伴金村の失敗にありとし弾劾、大伴氏は政権から没落。562年「新羅が任那の官家(直轄地)をうち滅ぼす」新羅の真興王が強大になり、300年にわたって維持してきた任那経営の終末となりました。

▼中国や朝鮮との密接な関係から知られていたでしょうが538年、正式に仏教伝来。古代国家は仏教という普遍的な宗教と結びつき、超越的な主権をめざす支配者に利用される一面もあります。

▼政治の中心が蘇我稲目と物部尾輿に。稲目は欽明天皇に姉妹を入れ、多くの皇子女をもうけました。大伴・物部の政権から蘇我・物部の政権へ。500年代後半には中国や高句麗の影響を受け、蘇我氏による欽明朝の政治において、直轄地ではすでに、律令制的な農民支配の先駆としての形が見られたようです。応神王朝のころから直轄領として屯倉(みやけ)を各地に設定し統括します。

▼いつのころからか大和朝廷では市税・関税も取り入れられています。500年代後半の後期古墳の時代になって、全国各地で小古墳が増加。自己の墓をもつようになったことこそ、当時の社会構造の進展を物語ります。この継体朝になって初めて「旧辞」「帝記」が完成するなど記録術の進歩が見られ、そうした書物が編集されることは、自国をまとめ振り返る余裕が出てきたことを物語っているのかもしれません。


第 2 章 ま と め
日本のふるさと・大和(^^) その基盤は10代・崇神王朝の頃から築き上げられたのでしょうが、謎だらけ。ともかく、400〜500年代に原始国家の基礎を固めたといえる15代・応神天皇からの応神王朝。その支配力を誇示する巨大古墳が姿を消し去るように、大陸への威力も弱まりましたが、たくさんの文化を摂取しました。漢字や政治制度、そして仏教の伝来です。
統制力の落ちた宮廷内では、これまでの豪族とは違う大伴・物部という新しいタイプの氏族が台頭して軍事力を掌握。次ぐ蘇我稲目は皇家との結びつきを強め、次第に強大勢力を広めます。こういった策士的な政権争いは、このころから始まったようです★ そして時代は、より統制のとれた専制的な古代国家成立へと向かいます。
 





第3章  古 代 国 家 へ 向 け



(1) 飛 鳥 時 代

▼仏教の渡来した欽明朝(29代・欽明天皇539年〜)から大化改新(645年)までの約100年を飛鳥時代とよばれています。山と水に囲まれ、朝廷を構成する貴族たちの本拠地が周辺にある、恵まれた奈良・飛鳥地方。この地に最初に都をおいたのは19代・允恭天皇から。難波宮など例外はあるものの(^^)京都に遷都されるまで、この地で政治と文化は育まれ成熟します。

▼少し振り返り、507年に26代・継体天皇。地方豪族出身(^^)、新王朝の決意か磐余に都をおく。そして動乱の時代。畿外勢力の台頭・進出、中国との国交も478年を最後に悪化。情勢は最悪でした。

▼天皇は蘇我氏の代表者を大臣にすることによって、形式的には官司制の中心に。主導権を蘇我氏から奪うことが天皇の目標です(それは600年になってから(^^))。さて、蘇我氏は天皇を仰ぎながら、豪族連合政権の性格をうちだします。その時、大連の物部氏は?ここで二氏を比較してみましょう。
 
蘇我氏: 大臣・元来土地に根をはった豪族。
<天皇専制>
気化系氏族とむすぶ進歩的経済官僚の元締め。
開明的崇仏派の中心
物部氏: 大連・職務により地位を築いた氏族。
神事関係職から軍事的氏族へ。いわば特高警察。
<豪族連合>
軍事力にたよる保守的氏族の代表。
頑迷な排仏派の急先鋒

▼さあ585年の30代・敏達天皇死後、二氏対立は最後の段階へ。蘇我馬子と物部守屋のかけひき対決。31代・用明天皇が587年逝去。馬子は初瀬部皇子をかつぎだし(後の32代・崇峻天皇)。穴穂部皇子を擁立していた物部氏は孤立に。蘇我氏は厩戸皇子(聖徳太子)ら仲間たくさん(^^) 587年に戦争開始、衣摺で守屋を討つ!こうして蘇我氏を中心とする、豪族連合政権の方向が政治の指導原理となりました。

▼後の四天王寺、法興寺(飛鳥寺)の建立が戦勝報恩のためというのは、飾る話だといわれています。物部氏が滅んで初めて蘇我氏および崇仏派は自由に行動できるようになり、物部氏の力が大きかったかを物語ります。もともと仏教の保護者であった蘇我氏の宣誓政権の確立とともに、日本仏教の母国・百済への層尼の留学がはじめて行われ、寺院造営の計画をおもわせる僧侶や寺工の渡来が始まります。

▼守屋を倒した馬子は32代・崇峻天皇をたて、ここに独裁的な権力を確立☆ 588年・法興寺の建立を計画、590年・材木伐採、592年・仏堂と歩廊が完成。この年、蘇我馬子は自分を憎む崇峻天皇を、東漢直駒をやって殺害!朝廷は故・敏達天皇の皇后の即位を決したのですが、これが33代・推古女帝なのでした。



(2) 推 古 王 朝


最 初 の 女 帝 ★ 推 古 天 皇

■歴史上、最初の女帝である第33代・推古天皇。皇位を厩戸皇子(のちの聖徳太子)と竹田皇子と決めかねたすえ、炊屋姫自身が即位しました。以降の女帝も次の皇位が決まるまで皇后が務めるなど、いわば“中継ぎ”の天皇。推古天皇は普通、聖徳太子の摂政とむすびつけて解釈されます。

■天皇家としては、蘇我氏の横暴をおさえるためには聖徳太子の即位が望ましいんですが、天皇になると蘇我氏の強い抵抗をうけて政治をおこないにくい。そこで天皇には馬子の姪にあたる推古天皇をたてて表面上は協調をよそおい、厩戸皇子を太子の地位におき、摂政という形で自由に手腕をふるわせたようです。

■推古天皇は中継ぎだったが厩戸皇子と竹田皇子のおりあいがつかず、36年間も位にあったようです。この時代は天皇の専制的地位が確立しておらず、取り巻く司政官によって政治は進められていきます。


聖 徳 太 子

▼574年、政界のいりくんだ関係のむすびめ生まれ。聖徳太子という名は後のおくり名です。朝政への正式参与(立太子と推古天皇の補佐)は600年(27歳)までに実現しららしく、朝廷では大臣・蘇我馬子(50歳前後)と微妙な関係でした。対朝鮮外交は馬子が中心で進みます。
 
蘇我馬子: 天皇の伝統的地位を尊重しながら、
実際の政治は豪族連合の強化と官司制の
整備を通じて実権を握り、
天皇を不執政の地位におしあげ有名無実へ
聖徳太子: 基本は次代の天皇、天皇権力強化へ。
馬子との摩擦を避け表面に出さず、
官司制の朝廷を天皇中心に組織しなおし、
天皇の専制的地位を回復へ

▼593年、四天王寺建立。603年[冠位十二階]の制定。百済・高句麗の例を参照して作られたようです。朝廷に仕える官史の位の上下を定め、位に応じてこの十二階の冠をさずけました。官人層の序列を整理する意味をになってますが、実際はたいていは現実の氏族の勢力と調和しています。事実、蘇我馬子は授ける側です。この制度を作ったのは普通には聖徳太子の制定ということになってますが、中心は馬子であり、太子は強力程度だとも言われています。冠位の名称とその順位には儒教と五行思想の影響されています。604年には[十七条憲法]も制定されたようです。

▼607年、聖徳太子の命により小野妹子ら遣隋使。「日出ずる〜」の文書で煬帝が怒らせた話は有名ですが、高句麗征伐のためか手なずけが有利と判断、608には国交します。遣隋使は600年、607年、608年、614年の4回。ちなみに630年から遣唐使となります。
▼難波津に到着した隋の使いを歓迎するための館を難波に建設(^^) 難波館の場所は上町台地だといわれています。太子が隋使を向かえることで天皇に敬意を持ち地位が高まり、諸豪族の尊敬が増しました。また、帰化人である留学生・学問僧を派遣しました。この派遣時に聖徳太子が“天皇”という称号を決めたとも言われています。ちなみに“日本”の名は大化改新の時に作られたとも言われています。

▼聖徳太子は605年から斑鳩宮に移り住みます。仏教・儒教にしたしみ海外事情を研究し、遣隋使派遣の準備を進めていたようです。法隆寺もこの頃建立されました。官司制の整備、中央集権の体制推進、新羅遠征軍の主導権を握り、その編成を通じて天皇の地位向上。隋の権威をかり、学生・僧侶を隋に留学させ中国文化の輸入、仏教の興隆などなど活躍した太子は622年(49歳)死去。


新 時 代 へ の 動 き

▼蘇我馬子は年老い、626年死去。石舞台古墳がお墓といわれています(^^) 推古天皇も後継者を決めかねつつ、628年に73歳で死去。その時、馬子の子・蘇我蝦夷が大臣。田村皇子を支持し、第34代・舒明天皇が誕生します。

▼630年、初の遣唐使。天皇の詔による百済宮・百済寺の建設。641年に舒明天皇が逝去。この時、中大兄皇子は16歳、若い☆ 皇位を誰にするか決めかねます。 なので中継ぎの天皇として、皇位は舒明天皇の皇后宝皇女がつぎ35代・皇極天皇即位、49歳。そこへ蝦夷の子・蘇我入鹿が登場、波乱の予感(^^)

▼643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷に出ず、大臣の印の紫の冠をかってに蘇我入鹿にさずけて大臣の地位を与えました。皇極天皇は黙認します。11月、入鹿は古人大兄皇子を太子にするため、有力対立候補の山背大兄王を攻撃(斑鳩宮の戦い)、軽皇子(孝徳天皇)も加わりました。山背大兄は斑鳩寺に戻ってみんなで自殺(><) これにより、中大兄皇子は蘇我入鹿に警戒心を強めます。入鹿については上級・中級の有力氏族のあいだにも不満たっぷり。

▼蘇我氏打倒の組織づくりに立ち上がる中臣連鎌子(藤原鎌足)。神をまつる職・神祇の家の生まれながら仏教信仰、周易・儒学を学ぶ進歩的文化人です。病と称して摂津の三島の別業にとどまり行動の自由を確保します。そして644年、中大兄皇子と密談(鎌足31歳・中大兄19歳)。入鹿一族には同族内にも分家筋に反感たっぷりでしたから、蘇我一族中の有力者・蘇我倉山田石川麻呂も仲間になります。さらに鎌足は石川麻呂の娘を中大兄の妃にとりもち、結合を緊密に。 そしてクーデター・暗殺計画へ☆



(3) 大 化 の 改 新


大 化 の 改 新

▼暗殺計画=6月、朝鮮三国の調をすすめる儀式を朝廷で行う。入鹿は大臣の職責上かならず出席。上表文をよみあげる石川麻呂を合図に、入鹿を斬る!刺客は朝廷の防衛を任務とする氏族たち、すでにちゃっかり仲間(^^) 7月に実際に三国の調がすすめられているから、このころ三国の使者は難波津などの港にいたようです。

▼645年6月12日。飛鳥板蓋宮。作戦決行成功☆ 中大兄皇子たちは法興寺に入り、これを城として戦備整調。蝦夷のもとには漢直らが参集。中大兄皇子は巨勢徳陀臣をつかわして君臣の義を述べ、帰順をすすめた。 翌日(13日)、蝦夷はかつて馬子が聖徳太子とともに編纂した天皇記・国記はじめ所蔵の珍宝に火を放って自殺。船史恵尺は国記だけ救いだし中大兄皇子に献じました。


新 政 府 の 成 立 ・ 開 始

▼皇極天皇は中大兄皇子(20歳)に譲ろうとしたが、鎌足とはかって辞退。軽皇子を推薦、これが36代・孝徳天皇(50歳)。6月14日に即位の儀式。大臣・大連を左大臣・右大臣へ。左大臣:阿部臣倉梯麻呂/右大臣:蘇我山田臣石川麻呂/内臣:中臣鎌足/国博士:旻法師・高向史玄理。皇太子の下に役職をおいて天皇制強化。
▼新政府は順調にスタート。蘇我氏打倒、唐にならって官制を整備、天皇の権力強化。日本全体を天皇の直属として公地・公民制をしく方針です。また、大化という年号定めました。

▼最初の問題は7月10日、三国使者の来朝。任那の調を納めた百済の代納をみとめたけれど、調の物が不足とつきかえす(^^;(ちなみに646年2月の三国遣使・朝貢では、9月に高向玄理を新羅につかわし談判させ、新羅からは人質をとり任那の調は全廃することに)。
▼大夫と伴造に施政方針についての意見を出させました。これは天皇強化を目指しながらも、朝廷が氏族連合によって成り立ち、朝議が群臣の合議によってきまる、という伝統を無視できないからです。左右大臣と大夫以上を成員としる合議制が、日本独特の政策決定機関である太政官制の母体となりました。

▼政策は8月に次々提出。以下は5つの法令です。
○東国の国司を任じ、全人民の戸籍の政策と田の面積の調査を命じる。中央の有力豪族が地方官となって、いっせいに地方へ。このころの国司は後の律令制下とちがい、任務を果たすと数か月で大和へ帰るのが原則。糸口をつけた程度です。○大和の六県に使者をつかわし、造籍・校田を命じる。公地公民のモデルに。○鍾きの制。朝廷に櫃と鐘をおき、自分の属する伴造や族長の裁判に不服のあるものは訴え認める。○男女の法を定める。父系制家族が一般化。これは戸籍のためと、有力者の奴卑所有を確認保護のため。○僧侶を統制するための十師と、寺院を統制するための寺司・寺主・法頭を任命。


第 3 章 ま と め
初の女帝は中継ぎの色濃く。蘇我氏の代表者を大臣にすることによって形式的には官司制の中心に。主導権を蘇我氏から奪い天皇の専制的地位を回復が目標。こういった権力争いの図式が以後ず〜っと続きます。聖徳太子は中国文化の輸入、仏教の興隆に励みます。冠位十二階も、諸氏族の勢力と調和を大切にしたものでした。
主役・中大兄皇子と演出・藤原鎌足による政治改革・大化の改新。新政府は順調にスタート。唐にならって官制を整備。日本独特の政策決定機関である太政官制の母体となる、左右大臣と大夫以上を成員とする合議制。日本全体を天皇の直属として公地・公民制をしく方針で、それを基軸として天皇の権力、中央権力の強化をはかりました。古代国家といえるものは後の持統朝にいたって完成となるようですが、後の律令制の戸籍・班田収受・調庸の制の前段階を築きあげました(^^)
 





第4章  前 期 難 波 宮



(1) エ ピ ロ ー グ


改 新 の 詔

■645年の末、都は飛鳥から難波へ(^▽^)第36代孝徳天皇、もちろんブレーンは藤原鎌足・皇太子の中大兄皇子の御一行。 難波へ移るのは、400年代前半の仁徳天皇以来、約200年目のこと。大陸文化をうけいれるのに便利な難波で、新しい政治を発展させようという抱負にもとづく遷都+聖天子のほまれの高い仁徳天皇の政治をつごうという覚悟も、政府首脳部はもっていたようです(^^) うつった当座は、難波屯倉や難波津を管理し、外国使臣を迎えるための建物が行宮(かりみや)として利用されたようです。

■大化改新の詔。難波宮で大化2年(646年)正月元日、新政の大網が4つの項目にわけて発表されたとされています。
1)公地公民(部民および屯倉・田荘を廃して公地公民の制をはじめること。
2)国家がどのうように支配してゆくか(京および行政組織と交通・軍事の制を整えること)。
3)戸籍・計帳・班田収受の法をたてること。
4)古い税制をやめて田の調以下の新しい税制をおこなうこと。これは随・唐の律令制度を模範として作られましたた。すぐには実行されなくても、こうした方針が出されたということです。

■改新の主な法令は、風俗矯正に関する詔や、位の制を647年に13階、649年には19階にしたこと。ここで、階位を超越してるのは皇族のみとなります。官位制の改正により、天皇を中心とする政治体制の確立。国司の地方派遣により中央集権体制の樹立。それらの基礎づけとなる公地公民制の成立。屯倉制の発展により、土地・人民の画一的支配。以上によって古代国家の実質をそなえました。この時、部民は自由民になったのではなく、豪族私有から天皇直属になったにすぎません。こうして成立した中央集権の政治機構を掌握する政府が、依然として大和・河内を中心とする地方の有力豪族をもって構成されていることを確認できます★



蘇 我 石 川 麻 呂 の 変

▼649年3月17日、阿部左大臣倉梯麻呂が死去。7日目の3月24日、右大臣・石川麻呂の事件のはじまりです。

▼蘇我日向が皇太子(中大兄皇子)に「石川麻呂は皇太子への暗殺を計画」と密告。事実ではなかったらしいと言われています。天皇は許さず石川麻呂を犯人扱い。中大兄はこれを機会に傷害となりかねない石川麻呂をたおそうと考えたのかもしれません。石川麻呂は難波の宅を逃れて大和の飛鳥にある山田寺(石川麻呂の氏寺)へ。翌25日、妻子8人とともに自殺。26日にも他の妻や従者が多数殉死。30日に関係者の処刑(><) 中大兄の妃・蘇我造媛は、父石川麻呂の死を聞いて悲嘆にくれ、傷心のすえに病没しました。

▼左大臣:巨勢臣徳太(徳陀古)、右大臣:大伴連長徳に。大臣は一般氏族とおなじ水準で天皇の政治に関与する官僚に。改新功労者の死によって、ここに天皇・皇太子の専制的地位を確立しました★



(2) 前 期 難 波 宮


前 期 難 波 宮

■いよいよ、前期難波宮そのものについて詳しめにです(^▽^)
改新は一段落。650年2月に年号を白雉に。天皇と政府の権威を高めるため宮廷をかざり荘厳を増すことに多くの力を注ぎました。651年12月みそか、味経宮(上町台地)に2100人の僧尼を召集。同じ日、天皇は大郡宮から、大化元年(645年)以来6年の歳月をついやして造営した難波長柄豊崎宮・いわゆる前期難波宮にうつる(^^)

■その後も宮は造営を継続し、652年9月にすべて完成。この宮をつくるために古墳を破壊し住民を移住させたりもしました(^^; 『書記』に「其の宮殿の状、ことごとく論ずべからず(筆舌に尽くしがたい)」とあるとおり、それは素晴らしい宮だったのでしょう。645年の大化改新から710年の奈良遷都までは、飛鳥時代とわけて白鳳時代とよばれます。難波宮はその先頭といえば先頭の都となるわけです。


発 掘 に つ い て

▼先に奈良時代の難波宮(後期難波宮)の所在地を支持する重要な資料が発見されていました。公営アパートの建築による調査。山根徳太郎氏による地道な発掘作業により、だんだんと解明されてきました。
・昭和30年の第四次発掘で奈良時代の瓦(蓮華文丸瓦と重圏文丸瓦)が地下2メートルの同じ層位から並んで出土。
・昭和32年の第六次発掘で柱痕列を発見。奈良時代の難波宮内裏をかこむ回廊の一部。
・昭和33年の第八次発掘で、奈良時代の遺構にかさなって、一時代古い火災にあった柱列のあと。

▼『日本書記』に天武天皇の朱鳥元年(686年)正月14日の条に「酉時、難波の大蔵省失火し、宮室悉く焼く」とありますが、これが発掘された火災にあった柱列の年代と一致(^^) こうして前期難波宮の存在が確かなものとなっていきます。それは、前期難波宮が火事で全焼したことを物語ります。また難波宮建立の当時、上町台地の最北端の大阪城のあるところは、この地方の神がまつられている神聖な地域であったために手をつけなかったのであろうと考えられています。


難 波 津 で の 外 交

■はるか昔から、大和朝廷の外交の港として活躍してきた難波津。当時は今の御堂筋のあたりまでは海が広がっていたようです。

■長柄豊崎宮にうつった651年、新羅の使いが調をもって筑紫につきましたが、使いは唐の服を着ていました。新羅が日本に断りなしに唐の俗に化したことを怒り、使いを追い返します(^^; 新羅は日本を怒らしても唐につきました。日本も653、654年に遣唐使をおくり、中国との外交をすすめます。

■このころは部分的に造籍・班田をすすめ、地方制度の整備を進行。長柄豊崎宮を囲んで官使の邸宅が立ち並び、日本にはじめて都城といえるものが成立しかけたようです。台地の南部には四天王寺。ふもとには船着き場、倉庫、民衆の仮小屋も並び、混沌としていたようです。



(3) エ ピ ロ ー グ


哀 れ ! 有 間 皇 子

▼653年、孝徳天皇と中大兄皇子の不和が表面化。大和の旧豪族を統制する必要からか、中大兄皇子が都を大和へ移したいとの申し出。それを難波宮在住@孝徳天皇が許さないという意見の対立。中大兄は無視して母・皇極上皇や弟・大海人皇子らをひきつれ飛鳥川の行宮へ。孝徳天皇の皇后である間人皇女までが天皇をすてて中大兄に着いていきましたとさ(><)

▼対立の原因は中大兄皇子が天皇に忠誠を尽くすというポーズを、次第にとらなくなり、天皇の地位を弱めたためかと思われます。654年、病床にふす孝徳天皇。10月10日に恨みを抱いたまま?逝去(><) 天皇のただ一人の男子である有間皇子は、死の床に侍する中大兄皇子をどのような眼で見つめていたか!?

▼有間皇子(15歳)は対立からも皇位の望みなし。皇極上皇がふたたび、飛鳥板蓋宮でついて37代・斉明天皇に(62歳)。中大兄皇子は政治上自由に行動をつらぬきます。657年、有間皇子は18歳。怒りか緊張か、ふるわずノイローゼ(^^;湯崎温泉へ行き、治ったらしいですが。

▼658年、蘇我臣朱兄が有間皇子をたずね、皇子に謀反をすすめます。もちろんそれも、自分を脅かす可能性のある存在は消そうという中大兄皇子の企みかもしれません。有間皇子は誘いにのってしまいました。

▼謀反の罪で有間皇子はアッサリ捕らえられ紀の温湯へ。松を結び身の幸いを祈るまじないをするも、有間皇子は絞首刑(T-T) 人々は皇子を哀れみ、数々の歌が詠まれています。
「鳥翔(つばさ)成(なす)あり通ひつつ見らめども人こそ知らぬ松は知るらむ(皇子のみ魂は、つねにこのあたりの空を通って見ているであろうが、ふつうの人にはそれがわからない、しかし、結び松はよく知っていることだろう)」by山上臣憶良


エ ピ ロ ー グ

■百済救済のため、660年12月24日、斉明天皇は難波宮へ行き、みずから筑紫に出向して救援軍を派遣する覚悟を表明。661年1月6日、斉明天皇(68歳)・中大兄・大海人両皇子らは西征の途にのぼり、那大津(博多)に着く。7月天皇つかれて朝倉行宮で急逝。中大兄は即位をのばして政治を行う「称制」、本営に留まり全軍の指揮。663年白村江の戦い、ともかく惨敗。百済さよなら。難波へ引き上げる軍船の中には、大海人皇子と2人の妃=大田皇女には大伯皇女と大津皇子、うの皇女には草壁皇子をつれていました。

■大海人皇子の宣により、新冠位の制定、氏族対策、部民の復活に取り組み。有力豪族と妥協しつつ天皇中心体制を前進。664年は九州防衛のため防人をおく。665年2月、間人皇女(孝徳天皇の皇后・今は中大兄の禁断の妃;;)が死去、667年2月に斉明天皇との盛大な合葬。そして翌月、中大兄皇子は都を近江の大津へ移す(^^)/~ 大和を離れる遷都となりました。これは唐を警戒して難波からさらに奥地へ移したいこと、琵琶湖を通じて交通に便利なこと、間人皇女の葬儀がおわり、中大兄皇子の即位の条件が整ったということなどが考えられています。



第 4 章 ま と め
前期難波宮。大化改新直後の新たな出発の宮であるのと同時に、中大兄皇子に振り回された孝徳天皇・有間皇子の哀しみの宮であったという印象を持ちました(^^;;
さて政治情勢の方は、まだまだ地方の有力豪族をもって構成されてはいましたが、国司の地方派遣により中央集権体制の樹立。改新功労者の死によって、ここに天皇・皇太子を中心とする政治体制、専制的地位を確立していきました。
 





ここから歴史上は重要なんですが都合上
後期難波宮まで急ぎとばします(^^;;流れだけ少し。


【中大兄皇子→天智天皇の最後】
■668年正月、中大兄皇子は近江の大津宮で即位(43歳)。669年藤原鎌足が病死(56歳)。670年日本全国にわたって戸籍を作る(庚午年籍)。
■生じる天智天皇と大海人皇子の不和。天智は671年病に。子の大友皇子を中心として新政府を結成。大海人皇子は天智天皇からの皇位継承の申し出を断り出家。天智天皇12月3日永眠。

【大海人皇子→天武天皇】
■大海人皇子の挙兵、672年7月2日攻撃開始、23日大津京を落とす。大友皇子は山前の地で自害(25歳)。この約1か月の戦いが「壬申の乱」。大海人皇子の勝因には民衆の不満と地方豪族の強力、大豪族の反主流派、皇族層の支持などもあげられます。
■672年9月12日、飛鳥浄御原宮をつくり、翌年2月ここで即位の式=第40代・天武天皇。

【鵜野讃良→持統天皇】
■681年草壁皇子が皇太子に。686年正月、難波の大蔵の建物から火が出て離宮が全焼、7月には民官かきのつかさ(のちの民部省)の倉庫が焼ける。その火は忍壁皇子の宮から出たともいう。同年9月、天武天皇逝去(56歳)。10月大津皇子の謀反発覚、死刑。
■689年飛鳥浄御原令の完成、公布。690年に鵜野讃良(うののさらら)皇后は即位、第41代・持統天皇に。694藤原京が完成、遷都。

日本古代国家は持統朝にいたってひとまず完成。国家権力は日本のすみずみまでゆきわたり、国民の一人一人をとらえるようになりました。民衆生活を上から制約すると同時に社会の安定をうみだす。そこから古代文化が発展し、つぎの時代をきりひらく力を貯えはじめます。

【聖武天皇】
■700年になり第42代・文武天皇に。以後、第43代・元明、第44代・元正を経て、724年に第45代・聖武が即位。この聖武朝(〜749年)のうちに、後期難波宮への遷都があったわけですが。701年、大宝律令完成。708年、和同開珎の鋳造が開始。710年、平城遷都。理由は疫病への呪術的な意図、交通の便などのようです。
 





第5章  後 期 難 波 宮



(1) プ ロ ロ ー グ


聖 武 天 皇

■第45代・聖武天皇(在位724年2月4日〜749年7月2日)。724年2月4日、24歳の皇太子・首皇子は第44代・元正女帝から譲位されて第45代・聖武天皇となりました。平城京の大極殿で即位の礼。聖武天皇は700年生まれ。14歳の夏、立太子。律令や算術を学び、帝王教育をうけ育ちました。

■唐では首都長安のほかに東都洛陽・北都太原を陪京とする複都制をとっており、皇帝はしばしば陪京に長期滞在していました。それを模倣してでしょうか、首都・平城京を拠点としつつ、遷都を乱発していく聖武天皇です。


あ い つ ぐ 遷 都

▼聖武天皇は元正前女帝・光明皇后、右大臣橘諸兄ら重臣とともに、藤原仲麻呂と紀麻路とのひきいる騎兵400に前後を護衛させながら平城宮を出発したのは740年10月29日。12月15日、甕原宮(みかのはらみや)到着。甕原宮は岡田離宮ともいわれています。

▼741年正月を甕原宮で迎える。741年平城京の大極殿や回廊は解体され、恭仁宮(くにのみや)に移建中だったが、742年にも出来上がらず。742年8月には紫香楽村に離宮を造営せよという命令、聖武天皇は紫香楽宮へ。翌年冬まで4回の行幸。4回目の滞在は743年7月から11月までの長期滞在。この滞在中743年10月に大仏建立の詔が出ています。

▼744正月、今度は難波宮へ行くと言い出す聖武天皇(^^) 聖武天皇の時代になってからは、726年に藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事に任じ、従来よりいっそう殿堂の拡充整備につとめていました。恭仁・紫香楽を山の離宮とすれば、難波は海の離宮です。天皇は心身の保養地として今度は海浜を選んだのでした。


(2) 後 期 難 波 宮

▼744年正月、百官の意見では恭仁京遷都でしたが天皇は難波へ出発(^^) 2月下旬になると天皇はまた紫香楽へ行く(^^;; しかしその出発した翌々日、左大臣は天皇の勅を難波宮で代読。「難波宮と皇都とする。百姓は恭仁・平城・難波の間を自由に往来してよろしい」という主旨でした。ここに首都・難波宮誕生(^▽^)

▼744年4月には紫香楽付近で山火事乱発。反体制側の抵抗かといわれています。745年、百官を集め下問、平城遷都の意見。かくて聖武天皇は5月11日に平城宮に帰還します(T-T)

▼745年5月、紫香楽から平城に帰還した聖武天皇は8月末、また難波宮へ。9月19日、天智・文武両天皇の孫たちはすべて難波宮に召集、皇位継承会議。一週間後、聖武天皇は回復♪平城に戻る。結局、738年から皇太子にしていた一人娘の阿部内親王(第46代・孝謙天皇)への譲位は3年後に実現しました。


(3) エ ピ ロ ー グ

▼聖武天皇は744年2月難波宮に都をうつしました。そして745年12月には都を平城京に復帰。747年9月、東大寺大仏の鋳造開始。749年、孝謙天皇の代になり鋳造おわり、752年4月、大仏の開眼式を行いました。

▼月日は流れ、784年11月の第50代・桓武天皇の時に長岡遷都、794年10月には平安遷都となります。


第 5 章 ま と め
後期難波宮。聖武天皇の気まぐれ転地療養中に遷都されてはみたものの、すぐに都は内陸へ。歴史上、あまり表に出てこない都だというのも、なんとなく納得(^^;; 離宮として、豪華に造られた後期難波宮であったように思います。
 





お わ り に
▼文明の発達する大陸文化を吸収、大和を拠点に発展していく朝廷。有力者を取り込み、天皇を中心とする政治体制が築き上げられてきました。日本が中国大陸はずれの島国であったという立地条件も、歴史には大きく影響しているようです。そして今日に至るまで激動の時代を乗り越え栄え続ける、世界に類をみない歴史をほこる天皇の存在には驚異を感じます☆

▼さて「難波宮」は前期・後期とも、それぞれツッコまずにはいられない、動乱の中にあった宮のように思いました。前期難波宮は大化改新直後の新たな出発の宮であるのと同時に、中大兄皇子に振り回された孝徳天皇・有間皇子の哀しみの宮であったという印象。後期難波宮は聖武天皇の気まぐれの中に遷都されてはみたものの、すぐに都は内陸へ。歴史上、あまり表に出てこない都だというのも、なんとなく納得(^^;; やはり難波は港町、水の都と謳われた江戸時代「天下の台所」が栄えある姿というところでしょうか(^^)

▼ますます発掘の進む「難波宮」と供に、宮殿・史跡の様子など、画像も取り込みながらまとめたページを、上の4章・5章をもとに作り続けようと思います。難波の歴史に刻まれた珍しい都・難波宮です(^▽^) 間違いを感じたり、新発見を知ったら随時修正していきます。また、とんでもない間違い発見の際は、お知らせくださると有り難いです(^^)それでは。




関連リンク   難波の歴史の部屋   「日本の歴史を難波宮まで」コーナー
「史跡難波宮」コーナー   「大阪歴史博物館」コーナー   「大阪城」コーナー

参考資料:中央公論社「日本の歴史」[1]井上光貞 / 『天皇紀』木下政幸

Prelude ♪

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