■645年6月大化改新。その年末、都は飛鳥から難波へ(^▽^) 第36代孝徳天皇、もちろんブレーンは藤原鎌足、皇太子の中大兄皇子の御一行です。 難波へ移るのは400年代前半の応神天皇(難波大隅宮)・仁徳天皇(難波高津宮)以来、約200年目のことです。 ■難波津のある外交に便利な難波で、新しい政治を発展させようという抱負にもとづく遷都+聖天子のほまれの高い仁徳天皇の政治をつごうという覚悟も、政府首脳部はもっていたようです。 移った当座は、難波屯倉や難波津を管理し、外国使臣を迎えるための建物が行宮(かりみや)として利用されたようです。
■百済救済のため、660年12月24日、斉明天皇は難波宮へ行き、みずから筑紫に出向して救援軍を派遣する覚悟を表明。661年1月6日、斉明天皇(68歳)・中大兄・大海人両皇子らは西征の途にのぼり、那大津(博多)に着く。7月天皇つかれて朝倉行宮で急逝。中大兄は即位をのばして政治を行う「称制」、本営に留まり全軍の指揮。663年白村江の戦い、ともかく惨敗。百済さよなら。難波へ引き上げる軍船の中には、大海人皇子と2人の妃=大田皇女には大伯皇女と大津皇子、うの皇女には草壁皇子、をつれていました。 ■大海人皇子の宣により、新冠位の制定、氏族対策、部民の復活に取り組み。有力豪族と妥協しつつ天皇中心体制を前進。664年は九州防衛のため防人をおく。665年2月、間人皇女(孝徳天皇の皇后・今は中大兄の禁断の妃;;)が死去、667年2月に斉明天皇との盛大な合葬。そして翌月、中大兄皇子は都を近江の大津へ移す(^^)/~ 大和を離れる遷都となりました。これは唐を警戒して難波からさらに奥地へ移したいこと、琵琶湖を通じて交通に便利なこと、間人皇女の葬儀がおわり、中大兄皇子の即位の条件が整ったということなどが考えられています。 ■686年正月、難波宮が全焼(><) 難波の大蔵の建物から火が出て離宮が全焼、7月には民官かきのつかさ(のちの民部省)の倉庫が焼ける。その火は忍壁皇子の宮から出たともいわれています。
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