史 跡 難 波 宮


住 所 大阪市中央区法円坂1丁目



古代大阪・上町台地の北端にあった宮殿、難波宮。大化改新後、遷都された孝徳天皇の前期難波宮(難波長柄豊崎宮)と、一時首都ともなった聖武天皇の後期難波宮。2つの時期の宮殿がありました。この2時期の宮殿がほぼ重なり存在している珍しい遺構が史跡・難波宮です。
   
   
ここでは史跡だけにとどまらず、前期・後期の2つの難波宮を、何故に遷都されたのか知りたくて作る『日本の歴史を難波宮まで』コーナーで使いました、歴史についてまとめます。さらに当時の宮殿やその様子を、史跡や大阪歴史博物館での再現模型画像を用いて把握・紹介しようと思います(^^)
前期難波宮    後期難波宮




前 期 難 波 宮

復元模型

645年 大化改新後、都を飛鳥から難波へ移す
650年 難波宮の建設開始
652年 造営完成した難波長柄豊崎宮に移る
653年 中大兄ら孝徳天皇を残し飛鳥川辺行宮へ
655年 皇極上皇が斉明女帝となる
656年 飛鳥岡本宮を造営
658年 有間皇子の謀反が発覚し絞首される
660年 女帝は難波宮へ、百済救済の決意表明、翌年出航
667年 近江大津京に遷都
679年 難波に羅城を築く
683年 副都制の詔が出される
686年 難波大蔵から失火、宮室全焼
694年 藤原京遷都


前 期 難 波 宮 の 歴 史


都 を 難 波 へ

■645年6月大化改新。その年末、都は飛鳥から難波へ(^▽^) 第36代孝徳天皇、もちろんブレーンは藤原鎌足、皇太子の中大兄皇子の御一行です。 難波へ移るのは400年代前半の応神天皇(難波大隅宮)・仁徳天皇(難波高津宮)以来、約200年目のことです。

■難波津のある外交に便利な難波で、新しい政治を発展させようという抱負にもとづく遷都+聖天子のほまれの高い仁徳天皇の政治をつごうという覚悟も、政府首脳部はもっていたようです。 移った当座は、難波屯倉や難波津を管理し、外国使臣を迎えるための建物が行宮(かりみや)として利用されたようです。



難 波 長 柄 豊 崎 宮 ( 前 期 難 波 宮 )

▼646年改新の詔を出す、公地公民の原則を明らかに。改新は一段落。650年2月に年号を白雉に。天皇と政府の権威を高めるため宮廷をかざり荘厳を増すことに多くの力を注ぎました。651年12月みそか、味経宮(上町台地)に2100人の僧尼を召集。同じ日、天皇は大郡宮から、大化元年(645年)以来6年の歳月をついやして造営した難波長柄豊崎宮にうつる(^^)

▼その後も宮は造営を継続し、652年9月にすべて完成。この宮をつくるために古墳を破壊し住民を移住させたりもしました。『書記』に「其の宮殿の状、ことごとく論ずべからず(筆舌に尽くしがたい)」とあるとおり、それは素晴らしい立派な宮殿だったのでしょう。645年の大化改新から710年の奈良遷都までは、飛鳥時代とわけて白鳳時代とよばれます。難波宮はその先頭といえば先頭の都となるわけです。


難 波 津 で の 外 交

■はるか昔から外交の港として活躍してきた難波津。山に囲まれた飛鳥・奈良地域で発展してきた大和朝廷にとって、難波津は西日本そして中国大陸との交流をするためにも重要な国際港でした。当時は今の御堂筋のあたりまでは海が広がっていたようです。400年代後半には物資を集積する倉庫群がつくられ、500年代以降の難波津周辺には大使館や迎賓館に相当する施設が多くつくられました。

■長柄豊崎宮にうつった651年、新羅の使いが調をもって筑紫につきましたが、使いは唐の服を着ていました。新羅が日本に断りなしに唐の俗に化したことを怒り、使いを追い返します(^^; 新羅は日本を怒らしても唐につきました。日本も653、654年に遣唐使をおくり、中国との外交をすすめます。

■このころは部分的に造籍・班田をすすめ、地方制度の整備を進行。長柄豊崎宮を囲んで官使の邸宅が立ち並び、日本にはじめて都城といえるものが成立しかけたようです。台地の南部には四天王寺。ふもとには船着き場、倉庫、民衆の仮小屋も並び、人と文化が集中し混沌としていたようです。


と り ま く 歴 史


中大兄皇子、飛鳥川辺の行宮へ

▼653年、孝徳天皇と中大兄皇子の不和が表面化。大和の旧豪族を統制する必要からか、中大兄皇子が都を大和へ移したいとの申し出。それを難波宮在住@孝徳天皇が許さないという意見の対立。中大兄は無視して母・皇極上皇や弟・大海人皇子らをひきつれ飛鳥川辺の行宮へ。孝徳天皇の皇后である間人皇女までが天皇をすてて中大兄に着いていきましたとさ(><)

▼対立の原因は中大兄皇子が天皇に忠誠を尽くすというポーズを、次第にとらなくなり、天皇の地位を弱めたためかと思われます。654年、病床にふす孝徳天皇。10月10日に恨みを抱いたまま?逝去(><) 天皇のただ一人の男子である有間皇子は、死の床に侍する中大兄皇子をどのような眼で見つめていたか!?


哀 れ ! 有 間 皇 子

▼有間皇子(15歳)は対立からも皇位の望みなし。655年、皇極上皇がふたたび、飛鳥板蓋宮でついて37代・斉明天皇に(62歳)。中大兄皇子は政治上自由に行動をつらぬきます。657年、有間皇子は18歳。怒りか緊張か、ふるわずノイローゼ(^^;湯崎温泉へ行き、治ったらしいですが。

▼658年、蘇我臣朱兄が有間皇子をたずね、皇子に謀反をすすめます。もちろんそれも、自分を脅かす可能性のある存在は消そうという中大兄皇子の企みかもしれません。有間皇子は誘いにのってしまいました。

▼謀反の罪で有間皇子はアッサリ捕らえられ紀の温湯へ。松を結び身の幸いを祈るまじないをするも、有間皇子は絞首刑(T-T) 人々は皇子を哀れみ、数々の歌が詠まれています。
「鳥翔(つばさ)成(なす)あり通ひつつ見らめども人こそ知らぬ松は知るらむ(皇子のみ魂は、つねにこのあたりの空を通って見ているであろうが、ふつうの人にはそれがわからない、しかし、結び松はよく知っていることだろう)」by山上臣憶良


前 期 難 波 宮 エ ピ ロ ー グ

■百済救済のため、660年12月24日、斉明天皇は難波宮へ行き、みずから筑紫に出向して救援軍を派遣する覚悟を表明。661年1月6日、斉明天皇(68歳)・中大兄・大海人両皇子らは西征の途にのぼり、那大津(博多)に着く。7月天皇つかれて朝倉行宮で急逝。中大兄は即位をのばして政治を行う「称制」、本営に留まり全軍の指揮。663年白村江の戦い、ともかく惨敗。百済さよなら。難波へ引き上げる軍船の中には、大海人皇子と2人の妃=大田皇女には大伯皇女と大津皇子、うの皇女には草壁皇子、をつれていました。

■大海人皇子の宣により、新冠位の制定、氏族対策、部民の復活に取り組み。有力豪族と妥協しつつ天皇中心体制を前進。664年は九州防衛のため防人をおく。665年2月、間人皇女(孝徳天皇の皇后・今は中大兄の禁断の妃;;)が死去、667年2月に斉明天皇との盛大な合葬。そして翌月、中大兄皇子は都を近江の大津へ移す(^^)/~ 大和を離れる遷都となりました。これは唐を警戒して難波からさらに奥地へ移したいこと、琵琶湖を通じて交通に便利なこと、間人皇女の葬儀がおわり、中大兄皇子の即位の条件が整ったということなどが考えられています。

■686年正月、難波宮が全焼(><) 難波の大蔵の建物から火が出て離宮が全焼、7月には民官かきのつかさ(のちの民部省)の倉庫が焼ける。その火は忍壁皇子の宮から出たともいわれています。



前 期 難 波 宮 の 特 徴


特 徴

■前期難波宮の建物は、地面に穴を掘って柱を立てる掘立柱形式で造られました。屋根に瓦を用いない日本古来の建築様式です。内裏や朝堂院を左右対称とする中国的な要素も採用されました。宮殿を豪華にみせるためか、内裏の左右には八角形の楼閣「八角殿」が立っており、これは他の宮殿では見られない珍しいものです(^^)

■朝堂が規則的に並ぶ空間を朝堂院といい、政治や公式行事、儀式などが行われます。前期難波宮は14棟の朝堂が東西対称に北から南に並んでおり、朝堂院の面積は広くとられていました。こうした建築要素は、以降の宮殿造りに続いていきます。朝堂には行政官が役職に応じて並んでいました。


難 波 宮 跡 公 園 に は

地表面よりも一段低くし、赤いタイルを敷いているのが前期難波宮の遺構を表しています。柱の位置を表示する丸い石のタイルは赤色です。

八角殿
赤い柱の八角形の建物が八角殿です。大極殿の西側、立体的に表示されているこの八角殿は、東西対称にふたつありました。他の宮殿では見られない珍しいものです。
   

朝堂
14棟の朝堂が見つかっています。前期の朝堂は、後期と比べて外側にあります。朝堂院の面積が広いということです。
   

回廊
朝堂院を囲んだ回廊。赤いタイルで表示。3列の柱が並ぶ複廊で、まんなかの柱には壁がついていたと考えられています。
   



前 期 難 波 宮 ま と め
前期難波宮。大化改新直後の新たな出発の宮であるのと同時に、中大兄皇子に振り回された孝徳天皇・有間皇子の哀しみの宮であったという印象を持ちました(^^;;
さて政治情勢の方は、まだまだ地方の有力豪族をもって構成されてはいましたが、国司の地方派遣により中央集権体制の樹立。改新功労者の死により、ここに天皇・皇太子を中心とする政治体制、専制的地位を確立していきました。
 





▼ 発 掘 に つ い て ▼
ここで、難波宮発掘の歴史について少し触れておきます。

■先に奈良時代の難波宮(後期難波宮)の所在地を支持する重要な資料が発見されていました。公営アパートの建築による調査。山根徳太郎氏による地道な発掘作業により、難波宮の全貌は少しずつ解明されてきました。

●1954年 第1次発掘開始。
●1955年 第4次発掘で奈良時代の瓦(蓮華文丸瓦と重圏文丸瓦)が地下2メートルの同じ層位から並んで出土。
●1957年 第6次発掘で柱痕列の発見。後期難波宮内裏をかこむ回廊の一部。

●1958年 第8次発掘で、奈良時代の遺構にかさなって、一時代古い火災にあった柱列のあと。
▼『日本書記』に天武天皇の朱鳥元年(686年)正月14日の条に「酉時、難波の大蔵省失火し、宮室悉く焼く」とありますが、これが発掘された火災にあった柱列の年代と一致(^^) こうして火事で全焼した前期難波宮の存在が確かなものとなっていきます。

●1961年 第13次発掘で後期「大極殿」の発見/1964年に国の史跡に指定。
●1987年 「大蔵」跡の発見
●1972年 前期「八画殿」の発見
●1993年 前期「朱雀門」の発見

■難波宮建立の当時、上町台地の最北端の大阪城のあるところは、この地方の神がまつられている神聖な地域であったために手をつけなかったのであろうと考えられています。




後 期 難 波 宮

復元模型

710年 平城京遷都
724年 24歳の首皇子が即位し第45代・聖武天皇に
726年 難波宮の建設開始
734年 難波宮の宅地を班給す
740年 天皇の彷徨開始、甕原宮へ到着
741年 恭仁宮を大養徳恭仁大宮と命名
744年 難波宮に遷都・皇都と定む
745年 平城京に復帰する
784年 長岡京遷都、難波宮の建物を移築
793年 難波宮廃止?
794年 平安京遷都


と り ま く 歴 史


聖 武 天 皇

■第45代・聖武天皇(在位724年2月4日〜749年7月2日)。724年2月4日、24歳の皇太子・首皇子は第44代・元正女帝から譲位されて第45代・聖武天皇となりました。平城京の大極殿で即位の礼。聖武天皇は700年生まれ。14歳の夏、立太子。律令や算術を学び、帝王教育をうけ育ちました。

■唐では首都長安のほかに東都洛陽・北都太原を陪京とする複都制をとっており、皇帝はしばしば陪京に長期滞在していました。それを模倣してでしょうか、首都・平城京を拠点としつつ、遷都を乱発していく聖武天皇です。


あ い つ ぐ 遷 都

▼聖武天皇は元正前女帝・光明皇后、右大臣橘諸兄ら重臣とともに、藤原仲麻呂と紀麻路とのひきいる騎兵400に前後を護衛させながら平城宮を出発したのは740年10月29日。12月15日、甕原宮(みかのはらみや)到着。甕原宮は岡田離宮ともいわれています。

▼741年正月を甕原宮で迎える。741年平城京の大極殿や回廊は解体され、恭仁宮(くにのみや)に移建中だったが、742年にも出来上がらず。742年8月には紫香楽村に離宮を造営せよという命令、聖武天皇は紫香楽宮へ。翌年冬まで4回の行幸。4回目の滞在は743年7月から11月までの長期滞在。この滞在中743年10月に大仏建立の詔が出ています。

▼744正月、今度は難波宮へ行くと言い出す聖武天皇(^^) 聖武天皇の時代になってからは、726年に藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事に任じ、従来よりいっそう殿堂の拡充整備につとめて、宮殿は新たに造営されていました。恭仁・紫香楽を山の離宮とすれば、難波は海の離宮です。天皇は心身の保養地として今度は海浜を選んだのでした。


後 期 難 波 宮 の 歴 史


都 を 難 波 へ

▼744年正月、百官の意見では恭仁京遷都でしたが天皇は難波へ出発(^^) 2月下旬になると天皇はまた紫香楽へ行く(^^;; しかしその出発した翌々日(2月26日)、左大臣の橘諸兄は天皇の勅を難波宮で代読。「難波宮と皇都とする。百姓は恭仁・平城・難波の間を自由に往来してよろしい」という主旨でした。ここに首都・難波宮誕生(^▽^)

▼744年4月には紫香楽付近で山火事乱発。反体制側の抵抗かといわれています。745年、百官を集め下問、平城遷都の意見。かくて聖武天皇は5月11日に平城宮に帰還します(T-T)

▼745年5月、紫香楽から平城に帰還した聖武天皇は8月末、また難波宮へ。9月19日、天智・文武両天皇の孫たちはすべて難波宮に召集、皇位継承会議。一週間後、聖武天皇は回復♪平城に戻る。結局、738年から皇太子にしていた一人娘の阿部内親王(第46代・孝謙天皇)への譲位は3年後に実現しました。


後 期 難 波 宮 エ ピ ロ ー グ

▼聖武天皇は744年2月難波宮に都をうつしました。そして745年12月には都を平城京に復帰。747年9月、東大寺大仏の鋳造開始。749年、孝謙天皇の代になり鋳造おわり、752年4月、大仏の開眼式を行いました。

▼月日は流れ、784年11月の第50代・桓武天皇の時に長岡遷都。難波宮の大極殿や朝堂院の建物も移築されました。そして794年10月には平安遷都となります。


後 期 難 波 宮 の 特 徴


難 波 宮 跡 公 園 に は

■後期難波宮の建物は、基壇上に礎石を据え、その上に柱を立てる方式で造られました。屋根には瓦を葺き、よりいっそう中国的な装いとなりました。後期難波宮は8棟の朝堂が東西対称に北から南に並んでおり、朝堂院の面積は狭くなっています。藤原宮以降は12棟が原則となっているそうで、8棟の朝堂というのは、副都として造営されたため簡略化されたものかと言われています。また、屋根を葺く瓦には重圏文と呼ばれるものが発見されており、これは後期難波宮で初めて使われたものとして注目されています。


難 波 宮 跡 公 園 に は

地表面よりも一段高くし、石造りで基壇を示しているものが後期難波宮の遺構を表しています。柱の位置を表示する丸い石のタイルは青色です。

大極殿基壇
大極殿とは公式行事を行う際に天皇が使う建物で、宮殿の中で最も重要な建物です。基壇の周囲を巡る回廊に囲まれた範囲を大極殿院とよびます。公園にある石造りの壇は、発掘調査の結果をもとに復元したものです。ちなみに本当の大極殿の高御座は、744年2月恭仁京から運ばれました。
   
   

朝堂
14棟の朝堂が見つかっています。後期の朝堂は、前期と比べて内側にあります。朝堂院の面積が狭いということです。この公園の南端には、朝堂院に入る門の跡も見つかっています。
   

築地
後期の朝堂院は、土壁に瓦屋根を乗せた築地で囲まれていました。
   



後 期 難 波 宮 ま と め
後期難波宮。聖武天皇の気まぐれ転地療養中に遷都されてはみたものの、すぐに都は内陸へ。歴史上、あまり表に出てこない都だというのも、なんとなく納得(^^;; 離宮として、豪華に造られた後期難波宮であったように思います。
 





さて「難波宮」は前期・後期とも、それぞれツッコまずにはいられない、動乱の中にあった宮のように思いました。前期難波宮は大化改新直後の新たな出発の宮であるのと同時に、中大兄皇子に振り回された孝徳天皇・有間皇子の哀しみの宮であったという印象。後期難波宮は聖武天皇の気まぐれの中に遷都されてはみたものの、すぐに都は内陸へ。歴史上、あまり表に出てこない都だというのも、なんとなく納得(^^;; やはり難波は港町、水の都と謳われた江戸時代「天下の台所」が栄えある姿というところでしょうか(^^)
難波の歴史に刻まれた珍しい都・難波宮(^▽^) ますます発掘の進む「難波宮」と供に、その歴史、宮殿・史跡の様子など、今後も関心を寄せてまとめていきたいと思います。
参考にしている資料が古いのもあり(^^;;ご了承を。また、間違いを感じたり、新発見を知ったら随時修正していきますので、閲覧してる方はご注意ください。また、とんでもない間違いなど発見の際は、お知らせくださると有り難いです(^^)それでは。


 
 

関連リンク   難波の歴史の部屋   「日本の歴史を難波宮まで」コーナー
「史跡難波宮」コーナー   「大阪歴史博物館」コーナー   「大阪城」コーナー

参考資料:中央公論社『日本の歴史』[2]直木孝次郎 [3]青木和夫
大阪市文化財協会『史跡難波宮公園サイトマップ』
史跡難波宮 大阪歴史博物館

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